旧毛利藩 御抱
萩焼坂窯由来

坂家の歴史は、豊臣秀吉公の朝鮮出兵に端を発しています。
当家の家祖、即ち李敬は、兄とされる李勺光とともに、文禄・慶長の役の折に毛利輝元公に連れられ日本に渡りました。関ヶ原の戦ののち防長二州に封じられた毛利公に従い、彼ら陶工も萩に移り、俸禄ならびに薪山として唐人山を賜り、萩 松本の地に御用焼物所が設立されるにいたります。
坂助八と名前を改めた李敬は、寛永二年(1625年)に「髙麗左衛門」に任じられ、江戸期は毛利氏・萩藩の庇護のもと、代々 御用焼物師の任を全うしました。明治維新とともにこの任は失われますが、毛利公より拝領した萩焼開闢の地を坂家は守り続け、四百年に渡り萩焼窯元として作陶に勤しみ、今日に至っております。

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坂家略系

初代髙麗左衛門
道忠 / 李敬
~寛永二十
二世助八
忠李
慶長一九~寛文八
三世新兵衛
忠順
慶安元~享保一四
四世新兵衛
忠方
天和三~寛延元
五世助八
忠達
享保七~明和六
六世新兵衛
忠清
元文四~享和三
七世助八
忠之
安永三~文政七
八世髙麗左衛門
忠陶(玩土斎・松翁)
寛政三~明治一〇
九世髙麗左衛門
道輔(韓岳)
嘉永二~大正一〇
十世髙麗左衛門
秀輔(韓峯)
明治二三~昭和三三
十一世髙麗左衛門
信夫(韓峯)
明治四五~昭和五六
十二世髙麗左衛門
達雄(熊峰)
昭和二四~平成一六
十三世髙麗左衛門
純子(韓峯)
昭和二七~平成二六
十四世髙麗左衛門
悠太(冠峯)
昭和六三~

()は雅号

坂窯の歴史とこだわり

坂窯の歴史とこだわり

窯元ごとに得意とする様式は異なるものの、萩焼の特徴としては柔和な色あいや、土味を残した素朴な風合いなどが挙げられます。
その中にあって特に坂窯においては、枇杷色と呼称される、より暖かい色味や、釉薬の細かいひび割れ「貫入」が細かく入っていることなど、より柔和で雅致に富んだ風合いを目指して作陶を行っています。

また「萩の七化け」という言葉の示すように、萩焼は使用いただくうちにその風合いを次第に変えていくことをまた一つの特徴としています。これは24時間ほどの短時間で『焼きを甘く』焼き上げることでもたらされます。繰り返し、時には世代を超えて末永くご愛用いただくことで、お手元で育てていただく楽しみを見出していただけることも萩焼の魅力の一つとして数えていただいております。

家紋について

家紋

坂家の家紋は、円を3つ重ねたような非常に簡素、かつ特異な紋ですが、これは「登り窯の大口(正面)を意匠化したもの」とされています。この紋が定められた具体的な経緯こそ不明ですが、江戸期に新設された家である坂家が、陶家の宝と言うべき登り窯をモチーフに自らデザインしたものであるのかもしれません。
一方で、「唐人山に月」という、御伽話のような呼称も伝えられています。登り窯それ自体、あるいは毛利公より拝領の唐人山、いずれも坂家にとってアイデンティティと呼べるものであり、家紋もその誇りを意匠化したものとなっています。